褻のヴィーナス
清水 雄稀
展示タイトルに掲げられた「褻」は、肌着を意味し、他人には見せないが自分には常に見えている感覚を指す言葉だ。
清水さんはその私的な感覚を手がかりに、用途を前提としてきた陶芸の在り方を一度解体する。
壺はエロティックではない——その気づきから、役割を持たない立体制作へと踏み出した。
照れや恥、セクシャルな感覚を言葉で覆うのではなく、ものとして差し出すこと。
本インタビューでは、「褻」という一文字に込めた覚悟と、現在の制作思想をひも解いていく。
The exhibition title Hadagi refers to undergarments, objects not seen by others, yet constantly felt by the wearer. Using this private, bodily awareness as a point of departure, Shimizu dismantles the conventional understanding of ceramics as functional objects.The realization that “a vessel is not erotic” became a turning point, prompting a shift toward three-dimensional works liberated from prescribed roles. Rather than translating embarrassment, shame, or sexual awareness into language,he presents them directly as objects.In this interview, we unravel the resolve embedded in the single character “Hadagi” and explore Shimizu’s current philosophy of making.


Yuki Shimizu / 清水 雄稀
陶芸家
2022年 東京藝術大学大学院 工芸科陶磁分野修了。
2024年 個展「相添ふ」K ART GALLERY。
その他展示多数。
現在茨城県取手市にて作陶中。
─ 展示のタイトルにある「褻」はどういう経緯で使われたのでしょうか?
「褻」は、荒木経惟という写真家がいて、彼の撮る作品に興味があって色々調べていたんですが、その時に 猥褻(ワイセツ)という言葉が出てきて、ワイセツの「セツ」がこの漢字でした。一般的には「セツ」と読む漢字なんですが、調べていくうちに、「ケハレ」の「ケ」として読めたり、「肌着」とも読めることを知りました。
もともと自分は、作品とエロティックなものを絡めてずっと考えていたので、この漢字がしっくりきました。「なんて読むの?」と聞かれたら、今回は「ハダギ」と読むようにしたっていう流れです。
*ケハレ(褻晴れ): この二つの状態を組み合わせた造語で、日常から非日常へ、あるいはその逆へと移行する体験や、両者の中間のような状態を指すことがある。
─ 肌着というと下に隠すようなイメージですが、基本的には公に出さないものなんでしょうか?
隠しているのはあくまで他人に対してであって、自分自身ではいつも見えていることです。自分だけが知っているみたいな。
やっぱり公にしすぎると生々しくなりすぎるし、過度にセクシャルに振り切ると、エログロナンセンスのような方向に行ってしまう。それがやりたいわけではないというか。
飲み込んで噛み砕いて、ものとしてまずカッコよく出力したい。今まで用途とか役割を持った形を作っていた結果、用途が先行しちゃっていたので、今回はかなり削ぎ落としました。
その用途をなくした結果、純粋に出てきたセクシャルなイメージを強く打ち出すことを目指しました。
─ 今回の展示で、いわゆる器など役割があるものではなく、鑑賞物としての立体作品を制作された印象です。
そうですね。空洞があれば用途ってなんでも生まれるという気がします。
別にアメちゃんを転がしておくだけでもいいし、水を張って葉を浮かべれば、それもひとつの使い道になる。考えようによっては、オブジェが漬物石みたいな用途を持つこともあるかもしれないし。
陶芸の装飾って、用途ありきで発展した技術なので、技法が工芸の装飾をより美しいものにしていると思います。
なので、すべては用途に向かっていく技術とか技法だと思うんです。
逆に言うと、それらをフル活用しないと、用途のないオブジェ的なものは生まれないなと思いました。持っている技術や感覚を出し切らないと、器になっていっちゃうみたいな。穴を閉じればいいものでもないというか。

─ 確かにその間って難しいですね。実用性を意図的になくすということですよね。
工芸と芸術の必要性をあえてなくすってことですね。実際、陶芸の歴史の中でも、オブジェ焼きっていうのを発信していた時代があり、走泥社というグループがオブジェを焼き物で作ることを発信していました。その人たち以外で未だに脈々とありはするんですけど、今も発展しているとは言い難いかなと。国立工芸館にも工芸の歴史のものとしてオブジェはちゃんと陳列、収蔵されているのでオブジェとしての系譜自体は確かに存在しているのかなと。走泥社の初期の試みを見ていくと、回転体をベースに、それをさまざまな方向から組み合わせていくという造形が特徴的でした。回転体のみの集積体というか、いろんな方向に縦の軸と横の軸のものをくっつけて、今までにない形を作るみたいなことです。「オブジェをつくる」という行為自体は、決して新しい潮流ではなく、むしろちょっと古いという印象です。
─ では、どうして今回の展示ではオブジェを作ろうとなったんですか?
学生の時から壺を作っていたんですけど、壺と人体の似ている部分が結構あって、「口」「肩」「腰」など、人の身体と同じ名称が使われていて。実際に、陶芸家が「これちょっと腰が張ってるね」とか、作品のタイトルにも”肩つき”とかってつけられて、人間の肩とかみたいにちょっとガッチリしてるねみたいな。
もちろん壺が先か人間が先かといったら人間が先なんで、後から人間に似ているなってなったと思うんですけど。特にそれらは女体になぞらえることが多くて、壺の美しさを例えるときに、「曲線」とか、「白い肌」っていうことがあります。
それが面白いと思って、「壺で人体を表現する」みたいな制作をずっとしていました。次第にそれがエロティックになっていきましたね。もうちょっと装飾を加えていくってなったときに模様を描いたり、マークをつけたりして、そこに意味合いが欲しくなっていきました。自分らしさを出すために、やっぱり絵付けをするというか、模様を描くようになりました。
それで、土屋さん(K ART ディレクター)とその話をしていたら、「壺はエロくないよね」という話になって。壺がエロいものに似ているのであって、人間の感覚としては、壺そのものがそもそもそういうものではないんじゃないのって言われて。要は、壺は性的対象ではないと。全くもってそうだなって思って、「今までずっと壺作ってたけど壺作るのをやめます」っていうのが今回の展示の始まりでした。
壺は元々使うものとして生まれたものなので、その後付けで何か人と似てるよねっていう考え方が多分世界中で発生しているんじゃないかなと思います。
やっぱり人が使うものだからか、身体のシルエットに近づいてくるみたいな。あとは文化として身近に置いておきたいとか、崇拝しているものとか、祭りごとに使うものとかが人型をしていることが多かったりして、そういう形になっていったりしたのかなと思います。後付けの考え方の中で壺ってエロいじゃんみたいな事を前提にしてしまっていたので、それは違うっていうことに気がついてやめました。
─ 清水さんの制作の着地点が壺ではないっていうことだったんですね。いわゆる用途を持った壺とか器を作るということについては今どうお考えですか?
それはそれで非常に面白さを感じているんですけど。
いい壺とかいい器とかっていうのはある程度概念があるというか。それこそ歴史の中で未だに骨董が何千万とか何億とかで取引されているとなると、本家があるというか、ある程度のルールがあります。1寸が3cmだから、5寸皿とか6寸皿とか、3cm刻みぐらいで使いやすい大きさとかがある。料理屋さんも、一寸刻みずつぐらいのお皿だと、料理に合わせていきやすいとか、コース料理で出すものが決まっているから小皿はこういうのが使いやすいとか。
そういったルールがあるというか。いい壺がわかるようになる方法は、本物のいい壺を見るしかないと思いますけど。そうなってくると、本物のいい壺にどれだけ寄せられるかみたいな話にもなりかねなくて、それは非常に浅い部分かもしれないんですけど、それを繰り返してやることで、本家を超えるものが生まれると思います。
なので、今まで本当にやりたかったことをしてなかったつもりはないけれども、個展に向けて考えた時に、そこでため込んでた考えを一気に発表したくて、ガラッと変わったことを見せたかったです。
タイトルも、英語を使うことに抵抗があったんですけど、ヴィーナスは使いたいと思って、展示タイトルを先に決めちゃうことで、そこから逃げられないようにしました。タイトルに沿って制作するしかないなと。小皿とか出してる場合じゃねえぞみたいな、少し覚悟を決める流れがありました。

─ 前回の展示と比べて、作品の主張が明確になったような気がします。
出るものが出たらいいなと。前回ここでやった展示をした時に、後輩の感想が「なんかもうちょっと清水さんらしいものが見れたら良かったなぁ」って言われて、非常に恥ずかしさを感じました。あれはあれで頑張ったので悔いはないんですけど。
─ 作風を変化させていく中で気にかけていたことはありますか?
何に使うのなんて誰にも言わせないぞと。どうしても工芸のジャンルだと絶対に目的があって、これ何使うの?とか、何を入れることを想定して作ったの?とかが100%あるんですよ。でもそれは工芸の脈絡だったら、絶対必要なことだと考えています。
─ 作品に対しての目的や決まりごとがあるんですね。
そうですね。本来、器に関しても全部正面があるんです。器に関しても、写真を撮る正面じゃなくて、口をつける部分と相手に見せる部分とか。 それもルールがいっぱいあって。誰がそのルールを作ったのかは知らないですけど、そういうのを大事にしている流れがあります。これは茶碗の形をしているけど茶は飲めないねみたいなことを言ったりするので、そういうことだけは言わせないと。
あと、上手い下手では絶対勝負しないようにっていうのは思ってます。購入ってことを考えた時に、うまいから買うんじゃなくて、やっぱ素敵だから買うってことの方が100倍多いと思うんです。だから今回の場合は、何に使うのって聞かれた時点で素敵さが足りてなかったなと思うんです。

─ ステートメントに、照れちゃうから言葉ではなく物として誕生させるとありますが、照れについてはどう捉えていますか?
もちろん、たくさんの人に見てもらいたい気持ちはあります。この個展だけじゃなくて、これから先も50年くらい作品を作っていくと思うので、できるだけ多くの人に見てほしい。でも、不特定多数の誰かを強く想像しているわけでもなくて、結局「見てほしい人」って、身内だったり、昔の先生だったりするんですよね。
いつか見てもらった時に、素敵だねとか、かっこいいねって思って欲しいから、エログロナンセンスなものは作りたくないんです。
けど、興味あるのはセクシャルなもので。普通にいいお皿とか、いわゆる綺麗なものを作ってた方が、「こんなにいい器作るんだね」、「綺麗だね」って言ってもらえるかもしれない。それも並大抵のことじゃないと思う。でも、俺はちょっと違ったというか。
だから、「これは何なんですか?」って聞かれたときに、つい哲学っぽい説明を持ち出してしまうことがあるんです。こういう考え方があって……みたいに。そうすると相手も分かった気になってくれるし、自分も説明した気になる。でもそれって、結局、本質的なところは何も伝えられていないんですよね。
─ 土偶については諸説ありますが、一説では、土偶や土器は女性が作っていたとも言われています。その技術や表現力が、その人自身の魅力や評価につながっていたのではないか、という話があって。集落の中で女性同士が競い合うことで、ああした独特な形や模様が生まれたのでは、という仮説がとても面白いなと思いました。「魅力を伝えるために作る」という感覚です。
かなり近いですね。人たらしじゃないけど、下心。なんか話を聞こうかみたいな、そういう気持ちが多分ずっとあります。でも出さないことで、陶芸家だぞみたいな。なんていうんですかね、その既存の概念にちょっと寄り添っていってたというか、でも全然俺の本質はそんなことなくて。それこそ、たぶん岡本太郎とかピカソとかクソモテてたと思いますし、今32歳になって、長い付き合いの人間が増えていった結果、見てもらいたい人たちに本当のところはバレていると思う。だから、これはもう出していかなきゃみたいな。恥ずかしい部分も出していく割り切りができたというか。でも、自分らしさを見つけるのって、なんかそのめっちゃ、恥ずかしいですよね。
─ でもやっぱりそこまでしないと、観る側が心を動かされないというか。向き合ってないものってやっぱなんか心には響かないと思うんです。そこまで覚悟を決めて向き合ってやってるみたいなものって、やっぱなんか感動するっていうか。
デカいものを作ると覚悟が決まります。どう考えたって使い道がない。置く場所に困るし、作っているときも大変だし、お金はかかるし、持ってくるのも大変だし。その上、用途も持たないなんてわけわかんねえ、と思ったこともあったんです。
K ART GALLERYは広いし、今回土屋さん(K ART ディレクター)にさらに作品の点数を少なくしようと言われて。めっちゃきついなと思って、それはそれで。
陶芸だとお皿300~400枚作って個展するみたいなことザラにあるので、作品点数が100とかっていうのは別に珍しいことじゃないんです。でも、今回は22点。あと今回の展示では文章も多くしました。DMの裏の文章と、壁に貼ってある文章が違って、さらにキャプションにも細かい文章を入れています。言ったからには、言葉にしちゃったらもう引き返せないみたいなのを自分に課した結果、今までと違うものができたかなと思いますね。

─ 今回の展示後、見据えていることはありますか?
理想はハチ公みたいなものを作るのが理想です。みんな集まる場所になんかあるみたいなのが理想なんですけど、陶器っていうのは結構破損がしやすいからなかなか野外では難しい。それでもやってみたいのは、やっぱりどんと置いてあるみたいな、象徴的なもの。象徴って言葉が好きなんですよ。
ホテルに飾ってもらったりしたのは、夢だったことというか、常設展示っていうのは目指していました。まあ話しやすいし、カッコつけやすいしね。笑 あそこに行けば見れるよみたいな。笑
あとは今年引っ越しをするんですよ。取手から出て、川越の方に行くんですけど、今までアパートだったのが一軒家になって、制作環境がガラッと田舎に変わります。そうなると、どうなっていくのかなっていうのは楽しみです。これでタンポポとか描き始めちゃうかもしれないし、鶏やアヒルを飼いたいので普通に花鳥風月に走っていくかもしれない。環境が変わるので作るものが変わっていくのが楽しみです。
あとは、写真集を出したかったんですよ。いろいろ作品を持って、ラブホテルとか行って、ベッドの上とかに置いて、撮影する。とりあえず撮ってみたいんですよ。
ZINEとかって言うんですかね。
あと、知り合いに作品を送って、あなたの部屋のどこかに置いてもらって写真を撮ってくださいみたいなこともやろうかなとは思っていて。俺が家にづかづか行くのもあれだから、ちょっとこの作品を1,2ヶ月の間は家に置いてもらって、座りのいい場所があったらあんま整頓せずにそこの写真を撮って送ってくださいみたいな。
作品が白背景でポンってあるよりも、それが誰かの生活にあるような写真集を作ってみたいです。今回DMの写真も俺の家の中で撮ったんですけど、全然あれでいいと思っています。
褻っていうテーマもあって、写真も自分のいる空間で撮るのでいいやと思って、ああいう感じにしました。
写真にはずっと興味があるんでそういうことをやって、見せびらかして、反応をもらったりしたいです。
去年の4月とかに写真をテーマにした作品で展示をやってて、Kodakという使い捨てカメラで写真を撮って、写真をモチーフに作品を作るということをやりました。陶芸と写真の親和性みたいなものがある気がしています。現像する流れとかも、焼いて定着させてるのとかも似てる気がするし、評論するのも結構ふんわりしてるというか、歴史はあるけど写真の評論とかも、陶芸の評論と似てる気がするというか。
なので、そういうことをやりたいです。発表しなくてもいいんですけどね。とりあえず作ってみたいです。
─ 本日はありがとうございました。
言葉で過度に語ることなく、照れやためらいを含んだ感覚を「もの」として差し出す姿勢が、作品に独特の緊張感と親密さを与えているようです。用途や意味から自由になったかたちは、観る側の感覚にそっと触れ、その受け取り方を静かに委ねているように感じました。
変化をし続ける清水さんの思考と作風から、今後どのような形が立ち上がってくるのか——その展開を楽しみに拝見していきたいと思います。
Interviewer:
Asuka Watanabe
https://www.instagram.com/asuka_afo/
Atsuya Nagata
https://www.instagram.com/atsuyanagata/

褻のヴィーナス / 清水 雄稀 個展
2026.1.16 Fri – 2.8 Sun
-Artist Statement-
僕は物を作って発表するという事に対して、照れが生じる時がある。言葉で伝えるには長かったり、赤裸々だったりする事を、この世にブツとして存在させてしまうからだ。今展の企画を練るにあたり、その内気な部分を何処かへやってしまう事から始めた。
タイトルを探す内に、「褻」という漢字がしっくり来た。「ハレ」の反対を指し、「普段」という意味で、「はだぎ」という読み方ができる。藝術の藝にも似ていて何だかいい。きっと今までとこれからの狭間の展示になると思う。是非実物を見にお越しください。
【開催日時】1月16日(金)- 2月8日(日)
【開館時間】12:00-18:00 (月曜、火曜休館)
【会場】K Art Gallery
*1月16日(日)は16時まで
Instagram: yuki_shimizu0809
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